株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強120 解釈とは何か

解釈とは何か?


■読むとは何か。
古典のような<長く受け継がれる>作品が偉大だと言われる理由は(ぼんやりと)正しいこと、立派なことを書いてあるから、と信じていた。(盲信と言ってもいいかもしれない。)(衛藤先生しかり、自分の目で見て判断をするようにしたが。ただ、それも勉強していないから行動に走っただけ。)その前提を受け入れてしまうと、「偉大な」書物に書いてあることは”絶対に”正しいことであり、そのまま言葉を受け入れなければならないことになる。(加えて「素直が一番」みたいな言葉の都合よい解釈が入り込むことで、言葉通り信じる考えを益々強固にしてしまう。)

しかし、これはサイテーの思考法である。
なぜか。問いを一般的に展開する。

なぜ、人は言葉をそのままに受け取ることはよくないのか。
(△字義的?→◎一義的)(権威に盲従する&見たものしか信じない思考)
世界を正しく認識することができないからだとしたら、なぜ言葉通りに受け取ると正しく認識できないのか。


■変化するもの、しないもの
また、偉大なものだからこそ長く受け継がれる、ということだが、そもそも長持ちするための条件は何か。時代は勝手に(人間の意志とは無関係に)過ぎていく。人間なんていなくても地球は回る。あなたが死んでも世界は動く。人類が生きる限り社会風俗の展開(通俗的には、進歩)は止まらない。人間は飽きる生き物だからだ。その時代変化に耐えうる(空間的(世界的)に加え狭義の時間的にも)書物が古典と呼ばれる。なぜ変化するなかで耐えうるのか。この問いに直に答える前に、変化するものは何か、という問いに答えなければならない。
古典の1つとして聖書をとりあげよう。長く見ても4000年前から古典は存在しているとしよう。4000年前といまで変化しているもの、いないものはなんだ。

(変わらないもの)
人間が呼吸すること、目が見えること、食べることは変わらない。そして言葉もその後になるが、話すことは変わらない。文字もない。人が死ぬことも変わらない。
※不可逆的変化はOKだ。つまり一度発見され現存し、今後もなくなる気配がないと確信的にいえるものだ。(例 言葉とか。)

(変わるもの)
ファッション、人気ある芸人、政権、フロー書籍、

変わらないものとは、つまり、人間(個人)自身が<必要だ>と判断するより前に、ア・プリオリに現前するもの。変わらない、というのは人間の周辺に存在するもの指している。

残らないもののほうが「楽しさ」があるからむずかしい
なるほどたしかに会話は楽しいが、会話も(演劇も)残らない。残らないと言うことは、時が経過するとその存在がなくなることを意味する。従って存在証明はできない。(現代的な録画装置←これも「科学」によった装置を使わない限りは。)仮に証明しようとしても、せいぜい容疑者からの「証言」ぐらいが根拠の関の山だろう。事件において容疑者自身の言説によって無実の根拠とする信憑性と同じ事。つまり会話は「なくなる(=変わる)」ものの代表格である。

形式もまた、暴力的で高くつくと言われるほどコストを払うものだ。
しかし、形式の空間的な性質のみが長く続かせる契機となっている。


■仮説
へーゲルもハイデガーも、あくまで<そこ>を語っているからである。彼ら自身にブランド(的な権威主義)を感じるのでは個人の勝手だが、その名前が取りざたされるのは「なに」の主張の妥当性を認められたからだ。「なに」が実体であれ表象であれ、それは世界の認識、理解の手段に関するものである。だからこそ我々は理解をすることができるのだ。<そこ>は平等に<われわれ>に与えられているのだ。それを普遍性があるという。
それは「村上龍」の小説とは違う。「村上龍」のようなブランドは死んだら終わりなのだ。(小説が言説的に「なにを表現するのか」で語られることはありうるが。)
その新たな課題を発見しなければ、停滞を迎えることしかないのだ。(歴史的、帰納的にも。)
この前提には「行動なんて勝手にしている。自律神経なんて勝手に動いている」ことがあると推察する。その深い追求はここでの本題ではないので、また別出。

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