論理力とは、思考力ではない。「論理トレーニング101題」より
冒頭から、打ち破られた。
この本を読もうと思った、もともとの動機は
「自分の収入を増やそう」という単純なもの。
そこから
→ビジネスパーソンとしての考える力をつけよう (稼ぐ力の本)
→論理力をつけよう (リーダーシップ構造論)
→本じゃなくて、トレーニングしよう (上記両著、自分の体験)
→「論理トレーニング」本を読もう。
という流れでこの書とめぐり合った。
だが、本書冒頭からいきなり、このプロセスへの誤りを指摘していただいた。
論理の力といっても、しばしばそう誤解されているような、「思考力」のことではない。
論理の力とはむしろ思考を表現する力、あるいは表現された思考をきちんと読み解く力にほかならない。
それは、言葉を自在に扱う力、われわれにとっては日本語の力のひとつなのである。
なるほど。
つまり、表現すべきもの無くして、思考の存在を認めることはできない。
論理とは思考そのものではなく、言葉の能力を最大限に引き出す道具であるということ。
何に関心を持ち、何を表現したいか。
それは自分自身にゆだねられている。
しかし、あなたが何かを表現したその瞬間、
それは意見の違う他者からの評価を受けることになる。
自分と異なる意見の相手と対話する。
それこそ、論理が要求される最も重要かつ典型的な場面である。
独善的な精神に論理は無い。
論理的な力とは、多様な意見への感受性と柔軟な応答力の内にある。
だから、論理が要求されるのだ。
他者の意見と自らの意見をすり合わせるために。
言葉と言葉の関係において、論理は姿を現わす。
論理は、つながりを明らかにしてくれる、
古くてみなが知っている道具。
だから、その意義と目的を知ることで、
あなたの論理はナイフのようにうまく使えるようになるのだ。
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