株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強48 なぜ三流の専門学校は「コミュニケーション能力」に走るのか

なぜ、コミュニケーションスキルはそれだけで、を教えられないのはなぜか。

もし、ある人が革命的なことを思いつき、それを実行すれば世界が圧倒的によくなるはずなのに、
その主張を論じなかったら、どうか。他者に影響を与えることはできないということ。

→他者に影響を与えられらないから。それがなぜ良くないことと言える?
人が生きることは他者と関わることであり、人はその無意識を自然と持っている」という前提があるため。


・「人は他者が欲望するものを欲する」という哲学者もいる(ラカン

→良し悪しでは論ぜられない。
影響には強弱があるといえるだろう。一方、強い印象としては残りづらいので
表層に現れる行動や議論のレベルでは、認識されていないとみなされるのみ。
(認識していないものは存在していない、という立場をとれば。)

一方、バタフライ・エフェクトに代表されるような「どんな存在にも意味がある」という立場を
とるならば、認識上は「オレなんて生きても死んでも意味が無い」と思っていても、
生きているだけで自然と影響を与えている、と言うことになる。
なぜそういえるのか。そう言えない事を否定できないのか。

思考が浅いのですぐに結論になってしまうが、結局、これを信じられるか、と言うのは
それは「無意識の声を聞き取りましょう」というのを
信じられる才能とかかわりがあるかもしれない。

これを哲学的に言うと、次のようになる

あなたがあげたものは、どれも一般化できない認識ばかりです(反対議論がいつでも成り立つ)。コミュニケーション論やノウハウ論は、結局のところ、「事情によって違う」というのが最後の結論になります(役に立つ人には役に立つ、経たない人には経たない)。思想的に言えば、カント主義の限界と言っても良いかもしれない。

だから、コミュニケーション論やノウハウ論は学校教育の体系や高度教育には馴染まないものです。せいぜいのところ囲み記事のような特別講座でやるのが限界です。研修屋タッチの教育を学校教育でやろうとしているのがすでにおかしいのです。職業人大学院の教育が崩壊しているのもそれが原因です。

しかし専門性や知識や技術を深める、極めるということが、どう人間性と関係していないというのか?それらはその領域を通して人間や社会や世界に関係を持ちたいという尋常ならざる関心と愛情がなければ生まれない。高等教育へと足を進めるものは、そういった人間性を選択したということです。一口に「人間性」と言ってもそれは一義的ではない。

拡散しすぎ。。。自分でも何を問いたい、言いたいのか分からない。

なぜ、コミュニケーションスキルはそれだけで、を教えられないのはなぜか。

もし、ある人が革命的なことを思いつき、それを実行すれば世界が圧倒的によくなるはずなのに、
その主張を論じなかったら、どうか。他者に影響を与えることはできないということ。

→他者に影響を与えられらないから。それがなぜ良くないことと言える?
人が生きることは他者と関わることであり、人はその無意識を自然と持っている」という前提があるため。


・「人は他者が欲望するものを欲する」という哲学者もいる(ラカン

→良し悪しでは論ぜられない。
影響には強弱があるといえるだろう。一方、強い印象としては残りづらいので
表層に現れる行動や議論のレベルでは、認識されていないとみなされるのみ。
(認識していないものは存在していない、という立場をとれば。)

一方、バタフライ・エフェクトに代表されるような「どんな存在にも意味がある」という立場を
とるならば、認識上は「オレなんて生きても死んでも意味が無い」と思っていても、
生きているだけで自然と影響を与えている、と言うことになる。
なぜそういえるのか。そう言えない事を否定できないのか。

思考が浅いのですぐに結論になってしまうが、結局、これを信じられるか、と言うのは
それは「無意識の声を聞き取りましょう」というのを
信じられる才能とかかわりがあるかもしれない。

これを哲学的に言うと、次のようになる

あなたがあげたものは、どれも一般化できない認識ばかりです(反対議論がいつでも成り立つ)。コミュニケーション論やノウハウ論は、結局のところ、「事情によって違う」というのが最後の結論になります(役に立つ人には役に立つ、経たない人には経たない)。思想的に言えば、カント主義の限界と言っても良いかもしれない。

だから、コミュニケーション論やノウハウ論は学校教育の体系や高度教育には馴染まないものです。せいぜいのところ囲み記事のような特別講座でやるのが限界です。研修屋タッチの教育を学校教育でやろうとしているのがすでにおかしいのです。職業人大学院の教育が崩壊しているのもそれが原因です。

しかし専門性や知識や技術を深める、極めるということが、どう人間性と関係していないというのか?それらはその領域を通して人間や社会や世界に関係を持ちたいという尋常ならざる関心と愛情がなければ生まれない。高等教育へと足を進めるものは、そういった人間性を選択したということです。一口に「人間性」と言ってもそれは一義的ではない。

拡散しすぎ。。。自分でも何を問いたい、言いたいのか分からない。