株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強76 思考力をつけるためになぜ理論書が役立つのか 論

勉強76 思考力をつけるためになぜ理論書が役立つのか 論

「シーシュポスの神話」 by カミュを読む前に・・・

そもそも、思考力をつけるためになぜ理論書が役立つのか

自らの思考を研ぎ澄ますうえで哲学書、理論書を欠かすことはできない。
雑誌に代表されるフロー的な書物を読む人は、物事があることに対して何の疑いも持たずに身体的な欲望のままに動くからだ。
そこには、自らの意志で持って何かを成し遂げることはない。
したがって自ら「はじめる」ことも「終わらせる」こともない。

フロー的な書物を読むということは意志を介在させずして情報を取り込むことである。
それでは思考は研がれることはない。なぜなら意識を向けることができないからだ。
あたかも、目の前にたまたまあったお菓子をバラバラに食べて栄養を確保しようとするようなものだ。
分野もあちこちへと飛散的なうえに量も少なく、浅くなってしまう。

これが最も恐ろしいのは、人間に「自分は力を鍛えているんだ」と錯覚させ、
「自分は本当にできているのか?」という検証や、いわゆる健全な疑問を持つことを止めてしまうことだ。
筋肉をつけたいのに 「今日は腕立てを3回、明日はスクワット2回」の
ような遊びとしかいえないトレーニング「ごっこ」をしても満足感を覚えることがあるのだ。

いまや情報の量は個人が覆うには広すぎる。全く痩せないダイエット本が毎年出版されては消えていく。
人は自らの意志で判断しているように見えて、単なる思いつきであったりする。
もっと言えば周りが意図するものを、そのまま鵜呑みに踊らされているということだ。

鵜呑みにして踊らされる事と、自分の意志を持って意思決定すること。
この2つは、表面だけみると同じに見えるが、内実は全く異なる。
自らが原理に照らし合わせて判断し行動を決定するのが前者のプロセスである。
自らの意志をもつ人には必ず「原理」がある。刻々と変化する環境の中でも、どんな場合にも通用するものを判断の根拠として語ることができる。
言語化が苦手な方はこの限りでない。例外のないルールはないの原則)

理論書は、以前書いたように(リンク)物事の原理を細かく書いているものである。
そこには一般的・普遍的にものが語られている。物事について因果関係で説明されており
なぜその仕組みがあるのか、結果はどうなのかという点に言及されている。

逆に言うと、そこでは新しい知識はフロー書物のそれより必要ない。
(理解するための専門用語を覚える必要はあるが。)
ここが、知識を出し入れするだけになるフローとも違う領域である。

さらに、リターンとコストの観点からも述べておく。
思考力は意識−集中と言い換えられる−というエンジンを抜きにして稼動することはない。
意識(より正確には注意)を思考する対象に向けること、エネルギー消費を伴う活動が、
ストックには必要である。この観点ではストックの方がコストを多く払っている。
フローではコストを払う必要がない。従ってリターンも得られない。
easy come easy go.ということだ。

だから、読むの難解な書物ほど、結果的に血になるのだ。
それには優しくない理論書出なければ意味がないのだ。


※フローの書物は、書き手が覚悟というか責任を持って書く必要がない書物である。なぜなら、記事の方向性は一貫しなくてOKだから。
ただ「世の中で話題になっているもの」、それは多くの場合自然災害だったり、普段全く接しない世界に住む人々からくる余波だったり
アメリカに住んだことないのにリーマンショックの影響を受ける。)
すなわち、記事は速かろう、わるかろうで十分なのである。
読み手も、目の前の派手さや新規さに影響されるからだ。(ただ、人類はその性質あってこそ、生き延びてきた)
例:深く相手のことを考えず、とりあえずセックスしたら子どもができた。