哲学を学ぶことはなぜよいのか?
■なぜ哲学か
このようなテーマになると、必ず疑問が出てくることがある。
「哲学(学問としての)なんてもたなくても生きていけるよ」だ。
まあ、そんなことはあなたの母親を見れば分かる。私だって持たずに生きてきた。特に、日本という気候風土的に暮らしやすいアジア圏に住んでいる我々にとって至極当たり前のことだ。
欧州の厳しい環境のせいも影響してか、哲学として極めている人はいわゆる西洋人に多い。アジア人の環境は、悪く言えばなあなあの世界で生きているのかもしれない。だから哲学はアジア向きじゃない?そんなことはない。アジアはあくまで宗教の生きる意味を見出し、生きてきたに過ぎない。
で、哲学が宗教と違う、良いところは「説明的」な点にある。人へ説明できて、そこに確信を持つことができる。担保はいまの全人類で生きる人々だということだ。それが学問の約束。その人たちのある種、高次の口ゲンカ(笑)に勝った人たちがその恩恵にあずかっていますよね。
普遍性があることが良いという話になる。
それだけではない。哲学は理性的なアプローチをその基本としてもつ分野であるが、人間を固定的なものとしてみなさない。そこが現実的であるがゆえに、納得できるのだ。その代表例として、「自己否定」をあげたい。
自己を愛する思想的行為として、自己否定しなければならない。
→結局のところ、人間は新しい自分に出会うこと、それが喜びに成る。しかしそれは全く別の存在になることを意味しない。あくまで従来どおりの自分であって、全く異なる他者では意味がないということだ。あぁ、そうだったのか、これまで思い違いをしていた。とこれまでの自分を否定的に反省するところに、新たな成長の兆しが芽生えもする。
新たな発展というのは、従来の成果の上に立ちながらも、それまでの知識の制約を乗り越える所に生じる。
このことをヘーゲルの思想から次のように読み取ることができる。
<講義>
カナリア諸島の発見によって、「新しい知識」となり最初は「世界の限界」として位置付けられた。その後、アメリカ大陸の発見によりこの位置付けは誤ったものとして否定されたが、カナリア諸島の存在そのものは本質として残った。
メモ--------
だから、より「正しい認識」を持とうとする上で誠実な態度は、否定の存在を認めることである。これが認識上として正しい態度である。
・自己を延ばすことを目指す上では関係なく、自己の正しい認識に近づいていくときに、本来の自分らしくない「否定」が果たす役割が大きくなる。
・個人的にも「否定」を当然のものとして捉える。
・心理主義。私の将来の思想を発展させることに期待して、締め切りを守る。