株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強91 心・脳・科学

by ジョン・サール

自分という存在は、個性的なのか。それとも決められているうちの一人なのか。

仕事の話で、部署の年長の方と上長の職責を持つ人との会議で、
常識的な慣習見たいな話が全く納得がいかないことが多く、私の中で問題になっている。納得できなくても言われたやるのが仕事であるからだ。
とはいえ、この問題は決着をつけておかないといけない、
なぜならここは「私の特徴とあわないから」というのが薄々はワガママだとは知りながら、それはなぜなのか?という問いが残っており釈然としておらず
成果創出に関わるからだ。


では、自由意志とはどういう状態なのか。
ただ単に物事を知覚する場合と、物事に対して行為する場合を考えてみましょう。

たとえば、腕を挙げたり、部屋を横切ったり、水を一杯飲んだりするという行為をしてみてください。すると、その経験のどの段階においても、別の行為をすることがその段階で自由にできると考えることができるはずです。

知覚・・・「これは私に起こっているなにごとかだ」という感じがある※
行為・・・「私がこのことを起こしているのだ」という感じがある

ざっくりとまとめていると、ある何かをやろうとするときに、
「他の何か、別のことを選んで動いてもよい」という確信があれば、
自由だといえるということだ。


われわれは自由だという確信をなぜ捨て去ることができないのか。(決定論はなぜ、納得性が弱いのか)

なぜならば、この確信は、あらゆる正常で、意識的な意図的行為に組み込まれているからです。さらにまた、この確信を利用して、行為を同定し、説明しているからです。

そして、自由とは言え、物理的限界や制約は常に存在していることもある。
これを意識して人生に臨むことが理性的に現実に向かい合うということ。
(そして理性的なものは現実的であるということにも通じるかも。)

「別のこともできたはずだ」ということは、自分に一定の範囲の選択肢が与えられていたということにほかなりません。

ただし、これでは自由と決定論が対立するときに、これだ!という解決策を提示できない点は問題となっているらしい。

物理的な説明はボトムアップ

だし、

物理的実在に関するわれわれの理解は、根本的な自由の余地を許さない

ということだし。

あとがき)
この本、あまり読めなかった・・・悔しいので、そのうちまた借りるかも。

※「感じ」が個人的にヒットだなぁ。