株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強90 哲学入門(ヘーゲル) その6

勉強90 哲学入門(ヘーゲル) その6

哲学入門(ヘーゲル著、武市健人訳)

自由とは何か。なぜ法律は存在するのか。

意志の自由は一般的な自由であり、他の自由はすべてその特殊のものにすぎない。意志の自由というとき、意志の外にもまだ自由をもつところの力とか、特性、能力というようなものがあるかように考えられるのではない。

(p41 第一課程 緒論の説明 一四)

「意志の自由」、人間が現在思うことで、将来の行動に対して何か行おうとする際に持つ自分の考えや思いというものは一般的だ、という解釈。


もし意志が一般的なものでないとすれば、法律は元来存在せず、すべての人を真実に義務付けることのできる何ものも存在しないだろう。各人は任意に行為し、他人の気持を顧慮しないだろう。

(p45 第一課程 緒論の説明 一四)

たしかに、私自身の例を引いて特殊的、アナログ的に考えると、プレゼンを通した営業が苦手で、そして他人の気持に疎いのは「俺は自由に紹介するから、自由に解釈してね」という考えが無意識的に強くあるからだと思う。だからこそ、法律の勉強をしましょうといわれても「どうしたらそれを破れるか」にしか考えが至らなかった。それはなぜかというと、別に「抜け道を見つけて大もうけ!」とかではなくて「その場が単に(自分が)面白いから」というそれだけの理由で貫き、結果として単位を落としてしもうた。
そんな自分の特性を振り返って書き出すと、ある程度明らかに眺めることが出来る。

ところが、意志が一般的なものであることは、意志の自由の概念から出て来る。人間はその現象面から見れば、意思一般についても、性格、慣習、傾向、個々の素質によって非常なちがいが現れる。人間はその点では特殊的固体であり、自然性によってそれぞれ異なる。各個体はその中に他の者にない素質と規定をもっている。

うんうん。

これらの固体の区別は意志そのものには何の関係もない。と云うのは、意志は自由だからである。自由の本質はまさにこの意志の無規定性にある。云いかえると、意志がその中に何らの自然規定をももたないことにある。それ故に意志そのものは一般的意志である。だが、人間の特殊性または個別性は意志の普遍性と抵触するものでなく、意志の普遍性に従属している。
法律的な行為とか、道徳的な行為とか、その他の立派な行為はもとより個人によってなされるが、しかしすべての人がその行為に賛同するのである。つまりその中に自分自身を、または彼ら自身の意志を認識するのである。−この点では芸術作品の場合と同じものがある。芸術作品を創作する経験をもたない人々でも、作品の中に彼ら自身の本質が表現されているのを見出す。してみれば、そのような作品は真に普遍的なものであることがわかる。つまり創作者の特殊性がその作品から消えているほど、賛同はそれだけ大きいのである。

賛同の大きさが動機となり、意志にまで昇華され、規定となり、法律を生み出す根っことなりうるということk、あ。
でも、それこそ民法の抜け穴を探していた、つまり他の選択肢があることを探して、それを提示しようとした私のようなケースはどう扱えばいいんだ?

我々がその普遍的意志を意識しないという場合はあり得る。人間は或るものが自分の意志であるにもかかわらず、それが全く自分の意志に反すると考えることがある。罰せられる犯罪者は無論、刑罰が免ぜられることを望むだろう。しかし普遍的意志から云えば、犯罪が罰せられるということは当然である。それ故に、犯罪者が罰せられるということが犯罪者自身の絶対的意志の中に存在するということが承認されねばならない。