株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強93 「分かる」こととは何か論

「分かる」ことの本質とは何か。

少し、このブログを更新するのが苦行のようになってきた。そうなると「問い」が出てくる。「何のために書くのか?」の問いである。先ほどの時点の私の答えは「変わるためかな」と思ったが、それはある意味では正しくない。だって勉強しなくても、単純なことならできるんじゃないの?
かの斎藤一人さんだって、「分かんなくてもいいから『幸せだね』『豊かだね』って言ってごらん」っていってますよ。分かんなくても生きられるよってことですね。また極端な引き合いだけど、人類は論理とか生み出す前から生きてきた事実もある。ではなぜ、分かる必要があると信じられているのか?とはいえ「思考・論理・分析」のあとがきでも出てきたように「物事を正しく分かりたい」という欲求もまた強く、そしてカンタンではない。

分かることのメリットとは何か?

ここで「分から」ないと出来ない職業の例として医者を挙げたい。免許の問題はあるにせよ、ある学生が意志としての勉強を一切することなしに、見よう見真似で覚えることでオペはできるのだろうか?個人として医学を修めたことはないのだが、おそらく医学部+インターンの8年間、見よう見まねでやってみても厳しいのではないか。
いや、絶対むりとは言わないが、たとえば心像の音の聞き分け方とか、見て覚えるだけでは相当っ厳しいのでは?あと人体構造も相当複雑だから、見て覚えるのもできない。人体構造にも、法則性が明らかにあるのは自明だろう。(当然、例外も或る)

うーん、少なくとも、この営業職を育てるやり方で、安定して大量の医者を育てられるイメージは湧かない。(オペにいたっては、基本は一発勝負だ。失敗しても取り返しはつかない)
それはスペースシャトルの設計が「短期間のトライ&エラー」を許さないことと同じだ。図面を引いて、それを理論(即ち過去のDB)適に見直し、模型をつくり、強度や考えうるあらゆる環境下にさらして材質と形状を工夫し抜く、もしこれが「短期間のトライ&エラー」なやり方だったら、人類は未だ月にもいけていないだろう。
そういった理性的な営みこそが最も、人類全体が幸せに近づく方法だね、とさらに約束事がなされ現在に至っている。約束ということは、つまり他者の存在が必要になるのだ。「あの人は物を分かっている」と見なされるためには何が必要か。特に学問領域においては、文化や歴史、政治思想に関係なく「再現性が担保される」ことが認められるための必須条件だ。(数学なんか特にそうだ。)※

かなり脱線したが、再現性という視点から、次のようなキーワードを引き出すことが出来る。

1)第三者に言語的説明ができる
  →自分以外の人間にも実行が可能な状態。集団の中における「評価」を下すことも下されることもできる。

2)どの状況でもそのテーマにおいて、いつでも同じレベルで理由が説明できる。できない場合はその理由も把握できる。


つまり「一定の成果を続けて出す」からこそ「分かること」が有効なのだ。
一人でやるんだったら、分かってなくても気合を使い捨てればよい。また、リスクも一人で背負えばよい。
しかしそのリスクも、一人では背負いきれない場合も多々ある。(スペースシャトル打ち上げなんかそうだ。)
「分かる」ことは、お互いがお互いを活用するために発揮する知恵なのだ。


※関係ないといいつつも、得意領域はあるけどね。ラテン系にとっての芸術、ゲルマン系にとっての哲学とか。