株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強109 哲学入門論

哲学入門 ヘーゲル

ついに買ってしまいました。そのお金を投下した理由を考えたいと思います。

→なぜ、この本を読もうとしてもなかなか読めないのか。
・抽象的な話が多いから。
「いま自分が置かれている状況、自分が持っている目標にどう役立てるか?」
などと照らしあわせて読めないから、意味性が感じられずにいた。(機能主義 笑)

→分からないなら、読み方を変えてはどうか。
・確かに、いま工夫している。
分かる所から読むという行為。
→他の本はいざ知らずこの本は、一文一文が全体を照射しても大丈夫なように作られている。
なぜなら、古典だから。もう少し詳しい部分を、以下に引用する。

文章の“全体”に始まりも終わりもない。どこから読んでも読み終われるのが文章というもの。古典的とも言われる“名品”の書物ならなおさらのこと。

ダメな文章ほど、因果(あとさき)に縛られ、ストーリーに縛られている。直木賞の文学が芥川賞の文学に差を付けられているとすれば、三流の文学は因果的だということに他ならない。

本の“全体”とか“部分”というのは、機械の部品(の集積)のような全体でも部分でもない。一行の文章がその行を含む一冊の書物の全体を表現している文章であることもあるし、どの行もどの言葉も均質の意味を有し続けている全体であることもある。それはどちらにしても最初とか最後という時間性を拒否しているのである。

だから、分からなくても、その部分を読み取って、そこから魂を感じるように読んでいくこと。それが礼儀。


→では、なぜそのリスクを踏まえた上で読んでいるの?
 ・普遍性がある古典で、力がつく。
 ・中身を得られなくても、人が「すげえ」と思ってくれるほどのレベル。(≒実力)
 (かつ中身もある)
 ・信じられる。書いてあることが分からない時の方が、学びのある可能性は高い。
 しかし、分からないということは、それで危ない。
なぜなら、本当にどうしようもないことを言っている可能性もあるわけだから。
そこで信頼ある人から推薦されたもの、そして人類の共通を超えて残ってきたもの(古典)を読む。
 →もちろん、今世の中に出回っている書籍の中にも、そのような本のカケラが(10億分の1でも)あるかもしれないが、
 それはハッキリ言えば非効率でしかない。甘んじてその可能性を捨てなければ成らない。


最後に、今回のテーマで書く契機となった発言を引用して締めくくる。

一人の人の一発言が正しいと思える条件は、その人の全ての発言が正しいと思えることと同じ。それ「は」正しい、なんて言ってる限りは何も理解したことにならない。ご都合主義でしかない。