モテたいと思っているのに、論理をやっているのはどういうわけか。
■本当にモテたいなら、本当はもっとよい方法がある
恋愛における、いわゆる「外人キャバクラ理論」をご存知だろうか。
これは「外人嫁が欲しい人は
身近なところで女の子の気持ちを動かすことを
実践した方が早いといえば早いよ。
(外人嫁が欲しいなら英語学習より外人キャバに行ったほうが早い理論)
私は実践的という一点だけとってみてもこのアプローチは正しいと思う。
■では、なぜ私はこの「論理を鍛える」アプローチをとっているのか。
一言で言えば
「上の努力は、そのとき限りで終わってしまう。
そしてそこから全体性を見出そうと思えない」からだ。
※さらに厄介なことに上のアプローチは心理的テンションに左右される。
つまり、どれだけ方法論が素晴らしくても実行時の自分が納得行かなければ、成功率が下がるのだ。
たとえば、上の努力をした結果、うまくいったとしよう。
すると、その時点から上記の努力は無用になってしまう。
恋愛というのは、人を相手にするものが須らくそうである代表格であり、
100%(どころか50%)も「成功」が約束されていないものだ。
でも、このアプローチと「携帯とtwitterを捨てて一人で沈うつせよ」はどう違うのか。
→どうも対処療法的なイメージしかなくて積みあがっていく感覚がない。
たとえば、コミュニケーションをよくするうえで、姿勢を正すことや
笑顔でいることはメチャメチャ大事。習慣するべきである。「キレイだね」と言われる。
若いうちからできたらそれは誉められる。もしかしたら飯の一食ぐらいは大人がおごってくれるかも知れない。
けど、それで終わり。
本当にスキルとして礼儀正しさをつくるなら、圧倒的な長期間にわたる継続性が必要となる。
それは、極めるには同じくらい年月を要することもある、学問とは異なっている。
・一言でいえば、正しさなんか
・極論すれば、長期間にわたって政治家をやっていても、それが評価されないのと同じだ。
(上の政治家が上たるのは、そのほかの要因による。)
ビジネスの世界では、コレは非常にむずかしいこと。
一方でそのことだけに情熱をかけつづけられて、礼儀を徹底できる人が優秀な営業マンとも言われる。
こういう人は、一人で圧倒的な売上を挙げられたりする。
そして孫正義さんはむしろこのタイプ。相手以上に相手のことをかんがえて、それでいて礼儀を失わない。)
詐欺師のほうこそ、キレイな笑顔をしていますよ。礼儀正しいですよ。
詐欺師のまずいところを探すと、いつか捕まるかも、という恐怖感に苛まれることが一つある。でもそれだけじゃないでしょ。
→効果はあるが、明らかに伝わらないレベル。
要するにイチローがいくら打てたからと言ってそれを教わることはできないという意味。
→そして、その意味において優秀な営業というのは「個性的」なのだ。だから人に教えられない。
ゆえに成果の再現性がない。教えたとしても基礎的なところでしか相手の理解は担保できない。
その基礎的なところは浅いラインでとどまるがゆえに、学生のうちに身につけようが、年とってから身につけようが同じ。
■つまり、その意味では哲学の方が「積み上がる」要素があるのだ。
■とどのつまり、自信をつけたい、高めたいから勉強するのだ。
たとえば、いま周りに声をかけたとしても、
それは私の理解力からいうと瞬発的になるイメージが高い。
つまり、相手の都合が悪くなったり、なんかマイナスが生じた時には、
そこで私はうろたえてしまうのだ。
そうすると、結局進歩なくまた、同じことを繰り返してしまう。
だから、ある意味ではそうならないように、いま勉強するのだ。
リスクは管理できるが、リターンは管理できない。
この思想は人間を幸せにしてくれるかは別にして正しい。
では勉強することで何を得られるのか。
何を得るのかという議論はあるかもしれない。
確かに、人が相手であるがゆえに「100%恋愛成功」などあるはずもない。
さらに芦田的立場においては、コミュニケーションであるので、ノウハウ化なんてできるわけもないのだ。)
(心理的には断られたらどうしよう、という思いもあるが、それは置いておく。)