株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強113 形式とは何か論

突然だが、このブログでは
あくまで<1日1個書く>の形式を守りたいと思う。
(投稿が遅れてやってきてたとしても。笑)

なぜ形式を守るのか。
<形式>本来の意味から考える。


■守る事によって生じるデメリットは何アカ。

一言で言えば、形骸化による弊害と同じである。
一回一回が形式を守ることに引きずられて
本来の意味である「思考力を向上させる」意識を忘れる
のではないか、ということだ。



しかし、一方で「いい文章を書かなきゃ」と思って
なかなか書けずに、結局形としてブログに残さなければ
忘却されてしまうのではないか。
(それでは思考力も何もあったものではない。)


■守ることのメリット

・「継続は力なり」を肌で感じることになる。
(形式として残ると「俺は100日書いたんだし・・・できる。」
ということにも繋がるのかも。)

とはいえ、このメリットの話は脈絡無い話を
持ち出してすりかえているようなもので、
前段のデメリットのリスクを乗り越えているとは言いがたい。

では、形式本来の意味とは何か。

自分の頭で担える範囲を超えているので、
ここで芦田先生に登場願おう。

かつてヴァレリーは「形式とは高くつくものだ」と言ったが、
それは凡百の意志や選択を超えているからこそ、高くつく。
意味のない高い買いもの(形式を買うこと)ができる力を持っていること、
これが〈伝統〉というものだ。天皇家もまた無意味の中心だからこそ、
〈伝統〉を担えているとも言える。

(「また戸山高校で国歌斉唱問題が起こった。」 芦田の毎日より)

(この前段で、「形式」とはいいも悪いも含んだものが本来の意味だ。と看破している。
それを受けて「主体(ここでは国家)が形式を持つ、とはどういうことか」を扱っている)

意味の無さを担えること、それが形式なのだ。
この文脈で言えば「むやみに」意味を求めることは、「伝統」を担えない。

国家(国歌や国旗)や歴史は、選択されるものではない。
それらが選択されるときには、その民族や個人は、“不幸な”境遇にあるか、
“不幸な”境遇になるかどちらかである。それは、自分の親(人生最大の所与)を
選択しなければならない人が不幸な人であるのと同じことである。
そういう自由は不幸な自由なのである。
自由も選択も、近代主義が信じているほどには人間を幸せにしない。

(「また戸山高校で国歌斉唱問題が起こった。」 芦田の毎日より)


ブログを書くのも書かないのも自由。
それが選択される時には、不幸な境遇なのかもしれない。

逆説的ではあるが、形式を担えるだけの
無意味を担える力があるからこそ、伝統や歴史が意味が帯びてくるのだ。
歴史が人々に与えるものは様々あるし今さら述べるまでもないだろう。

<現在>の緊張に耐えずに「自由」を取り敢えず掲げてはいるが
本質として変化に逃げていては<歴史>は担えない。