株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強114 書かないと読めない論

書かないと読めないのはなぜか。

■はじめに
「書く」とは「分かる」ことと言い換えられる。「知る」と「分かる」は違うとよく言われる。また、「分かっているか」は仕事をさせてみれば一目瞭然なのだが、それはなぜか。よくよく考えるとうまい説明文になかなかお目にかからない。この領域について、世界はどのようなメカニズムを有しているのか。考えてみよう。

■分かるとは限界を示すこと
大学の授業で文献を読む。しかし、この時点では「分かった」と呼べない。レポートを書いて始めて「分かった」ことになるのだ。「分かった」ということは、現在の自分の理解の限界を示すことでもある。存在社はそれを明示しなければ<ある>ことを証明できない。(「限界あるの・・・?ちょっとネガティブじゃない?」という心理主義気分のため養護しておこう。何にでもその時の限界は<ある>。しかし、そのことを自己否定の材料として組み込むことはまた別である。なぜなら、限界が<ある>からこそまた限界を超越する可能性もありえるからだ。そのことを否定として捉えるかは、心理主義である。メモ的に書いておくと、否定と嫌悪は別だよ。)

■知ることの弊害もある。
知ること(「知的」であること)は大した問題ではない。日の下に新しい知識はないことは聖書で触れている。
新しく「見える」ものは実は表現の方法が違うだけで、指しているもの「そこ」は既知のものなのだ。(そうでなければ、我々はどうやって理解するというのか!)
詳しい考察は別の機会に譲るが、「知る」ことが「分かった気分」を呼び起こしてしまうこと。これが弊害。(だから「分かっているか」を検証するプロセスを設けないといけないが。)だから、「知ること」以外に「やる気分」を呼びやすい法則を自分なりに持っておくことは大事だね。(機能主義的ですが)

そして、<書くこと>とは何か。たとえば<話す>との違いはどこにあるのか。今後は、そのテーマを扱っていく。