芦田流コンピテンシー論
論理的に説明できない、というのは、実際はそうではなかった、という判断根拠になっているのであって、論理能力の有無ではない。
論理は「確かめたいこと」を検証するための道具でしかない。人間の認識構造的に人に伝えるときに論理をふまえるのが最もやりやすいからだ。
ここでいう「確かめるべきこと」とは「知識、能力」と「実際の行動」との関係である。知識、能力とは、平たく言えば分析能力、経験をわきかりやすく言語化できる能力があるかに掛かっている。それは論理立てて話すことができるか、と言い換えても良い。
社会人は短時間で正しい人材評価を行わないといけない。その上では、自信やコミュニケーションといった要素は自然発生的に必ずみる。(これは社会人だから、という以前に人間の身体性として見ているのかもしれない。)さらに学歴も見る。その次に見るのが「コンピテンシー」になってきただけのこと。そして、そのコンピテンシーは「行動力」と「論理力」に影響されるのだ。
実践を行う上でわかっておくべきなのは、あくまで自分の話をよりよく伝える目的で、道具として論理を使う(意味を得やすく再現性もあって面白いが。)のだ。それがこの意味における論理の限界。