突然だが、このブログでは
あくまで1日1個の形式を守りたいと思う。
なぜ形式を守るのか。
<形式>本来の意味から考える。
■守る事によって生じるデメリットは何カ。
一言で言えば、形骸化による弊害と同じである。
すなわち一回一回が形式を守ることに引きずられて
本来の意味である「思考力を向上させる」意識を忘れる
のではないか、ということだ。
しかし、一方で「いい文章を書かなきゃ」と思って
なかなか書けずに、結局形としてブログに残さなければ
忘却されてしまうのではないか。
(それでは思考力も何もあったものではない。)
■守ることのメリット
・「継続は力なり」を肌で感じることになる。
(形式として残ると「俺は100日書いたんだし・・・できる。」
ということにも繋がるのかも。)
とはいえ、このメリットの話は脈絡無い話を
持ち出してすりかえているようなもので、
前段のデメリットのリスクを乗り越えているとは言いがたい。
では、形式本来の意味とは何か。
自分の頭で担える範囲を超えているので、
ここで芦田先生に登場願おう。
かつてヴァレリーは「形式とは高くつくものだ」と言ったが、
それは凡百の意志や選択を超えているからこそ、高くつく。
意味のない高い買いもの(形式を買うこと)ができる力を持っていること、
これが〈伝統〉というものだ。天皇家もまた無意味の中心だからこそ、
〈伝統〉を担えているとも言える。(「また戸山高校で国歌斉唱問題が起こった。」 芦田の毎日より)
(前提として、前段で「形式」とはいいも悪いも含んだものが本来の意味だと解釈している。
それを受けて「主体(ここでは国家)が形式を持つ、とはどういうことか」を扱っている)
意味の無さを担えること、それが形式なのだ。
すなわち「むやみに」意味を求めるようでは「伝統」を担えない。
国家(国歌や国旗)や歴史は、選択されるものではない。
それらが選択されるときには、その民族や個人は、“不幸な”境遇にあるか、
“不幸な”境遇になるかどちらかである。それは、自分の親(人生最大の所与)を
選択しなければならない人が不幸な人であるのと同じことである。
そういう自由は不幸な自由なのである。
自由も選択も、近代主義が信じているほどには人間を幸せにしない。(「また戸山高校で国歌斉唱問題が起こった。」 芦田の毎日より)
ブログを書くのも書かないのも自由。
それが選択される時には、不幸な境遇なのかもしれない。
逆説的ではあるが、形式を担えるだけの
無意味を担える力があるからこそ、伝統や歴史が意味が帯びてくるのだ。
歴史が人々に与えるものは様々あるし今さら述べるまでもないだろう。
<現在>の緊張に耐えずに「自由」を取り敢えず掲げてはいるが
本質として変化に逃げていては<歴史>は担えない。
いわゆる「無意味」なものを避けて避けて残った、
「有意味なもの」の極限には、究極の個人主義があるのではないか。
この主義は他人に徹底的に無関心という前提であるから、
人間同士の関係性や緊張感を一切許さない。
そのような関係性は、果たして我々を幸せにしてくれるだろうか。