株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強136 「他者」とは何か。

※今の自分を否定する必要がある。

・誰にも批判されずに、突っ込まれずにブログを書く。
・それはツイッターと一緒で意味がない。オナニーである。
・なぜならば、突っ込まれることによって人は自らの思考の
至らない部分に気づいていくのだから。
・そこに気づかないといくらかいても無理。
・でも「心理的な他者によっては再起不能」なのでは?
テキストに向かえばいいのでは?とashida先生。
・でもこの記述を曲解している感じがしている私の脳みそ。

・そもそも心理的な他者と心理的でない他者って何が違うのよ。
・下記の引用から考えると心理的な他者=<身体>、<身体>のある相手のこと。
心理的でない他者のうち、根源的な「他者」概念、
私が知りたい「他者」概念は哲学的なもの。であるならb、
哲学的な「他者」とは私(の死)である。

・例で言えば、一般に他人からフィードバック(以下FB)を受けることが
成長に対して有益だ、という主張があるとしても、
そのFBを解釈すること、意味合いを
得ることができるのは「私」自身しか居ない。
どれだけ卓越した他者がFBを行っても、
相手の理解が乏しいバカであれば意味がないのである。
野球始めたての人間がイチローからFBもらっても効果が薄いことと同じ。

・つまり、私が他者を意識してブログを書き、
一人で居ながら成長するためには、私の非力性、有限性を
常に意識し、その批判を踏まえて書くことに他ならない。
・その非力性というのは、たとえば私の思考力の甘さを
古典を読んだり、仕事の社会をテキストとしたりすることで
露呈し、強く感じることになるだろう。それはつらい。
だが、変化を担うにはそれしかない。

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・古典は、若者にとっては、家族((父親)に次いで、第二の他者だからね。ソーシャルメディアでは心理主義的な自己しか肥大しない。
・〈心理〉の他者って、そのまま考えれば〈身体〉しかない。わかっちゃいないよな、心理学はそこが。
・そんなことあるわけない。心理学の他者ほどいいかげんな他者はない。
・人間がわかり合えるのは他動詞的な他者に出会えるときだけ。自動詞主義は単なる心理主義。極端な謙遜と極端な自己肯定とが同居するのが自動詞主義(心理主義)。これでは本来のコミュニケーションの地平は見えてこない。
・Functionとして他者に追従し続ける機能主義的な自己とは、心理主義的な自己であるわけだ。相手の承認なしには、〈私〉はいかなる私でもない。逆に、どんなに陳腐な私であっても他者の承認さえあれば、それは私「である」。家族=親が不在である分、過剰な他者意識に包囲されているのである。
・私は私の死であるが、しかし私は死ねない。とすれば、私は私でない。私は私の他者である。