■賢い人(けど嫌な人)と教育者の違いは何か。
それは理論に対する意識か、相手に対する意識か、の違いではないか。
賢いだけ、と感じられる人が向いている意識は
何のために書いているかというと、他人を見下して、
傾きかけている自尊心を取り戻したい、という気持もあるのではないか。
同じ「バカだ」という表記でも
A先生のツイートとは違う「感じ」を受けるのはそのせいだと思う。
だから、賢い人が「無知だ」とつぶやくとき、何のため、誰に対して、行っているのですか?と聞きたくなる。
話しているのが、自分より無知な人、たとえば先生の言葉でいう「学生」だとするとき、
そういう人たちを導くために行っているのと違うんですか?
(つまり自分よりバカな人しか相手にしないという現象ではないか。
バカが正確でないならば、powerのある人と言ってもよい)
誰かがバカなことを行っているとき、その人より自分の方が知識があったり考えが深いことを
ひけらかすためにつぶやいているのか、それとも、その人のバカさを導いてやろうとするのかで、
その人の表現って変わると思っている。
そもそも「意味」は形より、音より、前に現前している。
すなわち我々は正確な理論そのもの、
客観的な対象それ自体を見る事はできない。
見ているものは「意味」である。
(こんなこと言うと「理論」って何?といわれそうだけど。。。)
つまり、解釈から逃れられないのだ。
純粋客観など存在しない、ということである。
我々は意味つまり解釈のなかにそもそも住んでいる。ということだ。
だから、賢い人の眼差しが、心理主義的な他者(身体)を見ているのか、
解釈の中でも、より普遍性・客観性を求めているのか、で
その下々に対する態度が変わるわけだ。