なぜ「数学」は嫌われるのだろうか。その理由を明らかにしていこう。
数学はなぜ面白くないのか?
数学という学問の性質から考えてみよう。
へーゲルは言う。
数学とは死んだものを扱うものであり、外から目的が与えられると。
我々は「数学をどう解くのか」については教えられてきたが、
「なぜ数学をやるのか」を教えてもらった経験のある人は稀だろう。
その程度の理由にも関わらず、
学生は勉強を促され、テストの点を競う世界に放り込まれる。
だが、これは学生の言わば協力的な盲信なしには成り立たない。
数学の点数がよい生徒は、数学を面白がる。
成績が低いのに数学を面白がっている学生はあまり見かけない。
これは当たり前のように見えて意外なことだろう。
国語が低いけどマンガ源氏のおかげで古典だけは好きとか、
理科は嫌いだけど恐竜や車だけは好きという学生を見ることができるからだ。
確かに、教科そのものに面白味を感じる以外にも、
勉強を好きになる場合はある。3つほどあげる。
1つは教えてくれる先生が好き、
2つはなぜか得意だった、つまり人よりうまく出来た(しかも人生の序盤期に)、
3つはそれが他者(クラス)評価につながるから、である。
3つ目は、いわゆる自己表現の手段としての勉強だ、身体が弱いから、
笑いとるのが苦手だから代わりに勉強するとか、といったものだ。
数学という学問は、その中に目的を持たない。
一方で哲学の目的は真理の追求であり、
テーマを問うこと自体もテーマの本質性を明らかにするという意味では哲学なのだ。
「哲学が考察するのは非本質的な内容ではなく、本質的な内容に限られる」(精神現象学、まえがき、P29)
数学は非本質的な学問であり、哲学は本質的な学問であるといえる。
本質的だからこそ、学校のなかではなくむしろ卒業した後にこそ、
「私の哲学はね・・・」という仕方で語られるのである。
(それは本来の哲学とはほど遠いものにせよ。)
哲学のいう本質とは、非本質を排除するものではなく、非本質と直接な関わりをもちながらも自立してある本質のことである。
へーゲルいわく、本質とは非本質の否定を含むものだから
本質とはそのものが否定体なのである。
生命あるものを相手(=対象)とすることが、
哲学が「自由な学問」であると言われることに関わっているだろう。
それが学校教育に関係なく、人々が触れてみたいテーマとして
哲学が選ばれる要素なのではないだろうか。
(その2 了)