株式投資記録

http://d.hatena.ne.jp/show_t/20170219 努力する人間になってはいけない。このブログでノウハウを集約、整理し、習慣化。それ即ち大儲けも習慣化! いつも心にセリクラを!!!   2018最終日 NK20014 TPX1494

勉強156 日記1217

12月2週ぐらいに考えていること。

今日もモスバーガー。ついに日曜から6連続である。もはや店から表彰されてもいいのかもしれないと思いつつも、はっきり言えば5日間で落とした金額が1000円を超えるか超えないかというていたらくなので、絶対に無理である(笑)。とりあえず居れば店が寂しくないという立ち読み客レベルの効用しかないことだろう。とはいえ今日は金曜日。そもそもこんな夜にそんなに客はいない(笑)チーズバーガー、クラムチャウダー、ホットコーヒー、ジャスミン茶などなど(笑)

今日は朝から個別面談。相手はI君である。1分PRのやり方などの相談を受けた。フィードバックでは、時間性を図に書きながら時間の意味を追っていった。それにイトウ君は感銘を受けていたようで終わりには「スッキリした」とコメントしてくれた。その要因はなんとなくつかめている。一つには、普通は時間的に解釈されるものを構造的に(いわば反時間的に)解釈して語ったことだろう。一面的な見方では見えなかったものが見えたのかもしれない。対象は変わらない(自己PRである)にも関わらず。
少なくとも以前の自分にはできなかったこと。その点は素直に評価しよう。評価であり、肯定(すなわち是認や妥当性の承認)ではない。自らの個別面談の近傍に一流を見いださなければならない。
そういえば昨日のSさんのときもそうだが「あれこれ、つまみ食いして情報を集めてもしょうがない。つまみぐいしたところで表面的なことしか分からない。」といった。これも確信性を持って語った。何でも、多少は歴史があり人を引きつけてきた(時間性の新旧に関わらず)ものであれば、そこには一定の批判に耐えただけの構造が存在する。しかし、その構造をできるだけそのままの形で(すなわち「構造」として認識するには
構造をつかむ前に終わってしまう」

体験会における営業力はいまのところOさんにはかなわないが、この調子でいけば多少は追いつけるのではないか。(しかし売るための論点はそこではなかったことを後々に知る・・・)

最近は(以前の自分に比較してではあるが)ストック的なものにふれようとする為に、フロー書籍に触れていなかった。(マンガは読んでいたが)ではあるが、少しはホリエモンやドイさんの本を読んでみた。いわゆる「自己啓発」モノである。楽しみ的な要素と仕事的な要素が入り交じっている。これは特色であるのと同時に逆にたちが悪い気もしている。中途半端なモノを「いいものだ」と思いこみそれ以上疑問を抱かないという危険性ということだ。今日はドイさんの「20代で年収は9割決まる」というタイトルの本を読んだ。とても心臓に悪いタイトルだ(笑
)うーん。ショッキングなタイトルのおかげで、私のコンプ的なものがくすぐられ、また明らかな〆切の提示により「読まねば」という気分にさせられたがちょっと期待はずれ。
どういうことか。対象を細かい年代で分けているのはいいが分けすぎて1カテゴリの分量が薄い。しかも、かつ通俗的で一面的な主張が多く余計に薄まっている。あと「9年はがんばれ」的主張は分かるが前著と同じことの繰り返しで新しい意味はない。あとは著者の経験によりすぎてアドバイスとしては根拠が弱すぎる。
本の主張でひとつよかったのは(それも私の見方が変わったことによる発見だと思うが)「のめり込める対象」を見つけよということだ。
それは9年何かをやるにしても、発見するときには「私が発想するのが好き」とかいう自動詞主義で終わることで発見してはいけないということ。あくまで「対象」として〜〜を、というかたち、すなわち他動詞主義でなければならない。にしても、リスクあるから触れづらいとは思うが「何を選ぶか」も必要だと思うが。いくら何でも福祉9年やっても年収が平均の1、5倍には届かない気がする。経営すれば話は別かも試練が。
もう一つは雑用をバカにすべきでない、という話の再認はよかった。お茶の出し方で写真を乗せたのはインパクトあり。本を書く最中になかなか思いつくことではない。服の着こなし方<にも>
あと今日はフクイさんをバカにしてみたが、それはなかなか
しかしスグルも別の場ではディスっていたわけで、あそこで私のちゃかした批判は、やはり「場の空気」にあっていなかったのかもしれないな、と通俗的な意味で反省。ただし反省、という奴は基本的に反省しない 笑
社会人になってからワードを使わない、パワポのアニメはほとんど使わない。エクセルはVLOOKUPと関数(仮)はマスターしておけ。マクロが使えればなおよいとのこと。

しかし、指導することは本当に自分の思考を棚卸す良い機会である。就職とは他者を意識する事であるから、俺は昔からぜんぜんできていない。未来を考えるに当たって過去と向き合う必要があるが、そもそも過去なんて存在しないのであれば考えるだけ無駄なのかもしれない、とすら思っている。しかも今日イトウ君にもフィードバックしたが、正しいことなんかいくらでもある。それぞれ正しさの位相や視点が違うだけだ。ナカタニさんが何を言っても、それは正しさはあるだろうが、必ず限界があるのだよ。そこを見ようとしないと。もちろん私の指導にも限界がある。とはいえ私自身には限界が分からない。

あと、Sちゃんを今日も誘えず残念。痛いなぁ。今頃誰かと行為にふけっているのだろうか。やはり若い女性は誘惑力が強いだけに、ハマるから、怖い。もはや恐怖の対象でしかないというのはレトリックに過ぎるか。
昔からそうだが、いまだに他者性を十分に獲得できない視点で考えが進み、書かれている文章だな、と思うことがある。(昔の私の文章は本当におれが書いたの?と直視できないものばかり)だから営業もあまり得意でないほうに入ることが多いのだろう。とはいえA先生は営業できないだろう。それでも時間をかけてはいるが校長になっている。30代は年収100万円だった(前半だけでしょ、でも。)かもしれないが。泥だらけのなかで。そりゃあ教員(社会性が全くない人)にもなるわなぁ。

俺の他者性が低いのはなぜか。そもそも基礎力が低いという問題はひとまず置いておいたとしても、それでも生じるのが「発想が浮かびすぎる」ことである。ために、つまらない発想がたくさんある。というより、目的やおもしろさつまらなさに関係なく(俺の昔の言葉でいえば「損をするにも関わらず」)アイデアが浮かぶことを止められない人を「発想のある人」と呼ぶのだが。それほど発想することと私は不可分であるように思われる。ややアブダクション的な見方だ。(ほかのモノはすべて捨てたとしても)発想を生かしたいからこそ、他者性を獲得したいと思った。他者性を獲得するために知識の増大と論理づけが(原理的には必要悪だとしても)必要であった(理由は分からない)。生来的に「気遣い」や「話すことをコントロール下(意識下)に置きつつ態度を変える」なんてことができない性分なのだ。しかし、そういった代償を払ったとしても発想をしてしまう性分である。
<個性>とは何か。それはすばらしい環境で、甘やかされて育ったものをそのように呼ぶのだろうか。むしろ、泥にまみれてでもやってしまうものこそ<個性>だということは無いだろうか。ときには<個性>にのめり込むあまりに他者といさかいを起こすこともあろう。その原理を支持するならば、A先生は思索することを止められないからこそ、哲学者になったということか。

さて、とりとめのないまま続いていたが、そろそろ終わらせないといけない時間だ。思考のすばらしいのは「終わらせることができること」なのだから、名残惜しいがこの文章も「終わらせ」ないといけない(笑)
(まぁ、後から簡単に読み直せるようにしたいとは思うが。)
読み直すときの時間には、多少は自分の問題意識も明らかになっていることだろう。(了)