「コミュニケーション能力」教育論はなぜ間違っているのか? by 芦田宏直
■目的
・コミュニケーション能力を高めうえで、漫然と「数をこなす」ことは無駄なことで、大事なのは意識のベクトル。それをどう向けるべきかを知る。
・コミュニケーションが加わるトレーニングを設計・実施・点検するうえで重要なポイントを確認する。
■主張を私の視点でまとめる
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
・コミュニケーション能力を養成するには、INPUTを充足させることが不可欠。ゆえに、学生より経験の量が多い社会人のほうが高くなるのは当然である。その差が、常に「世代論」が議論される背景にある。
・学生教育の場合には、アウトプットより先にインプットすべきものを与えなければならない。ただし、アウトプットの機会である試験には有用性がある。それは、インプットのレベルを実感できる点だ。(さらに教員に質を実感させるのにも役立つ)
・ゆえに「何をインプットすべきか」ということを知らなければ、教員はコミュニケーション能力を向上させることはできない。「何」は教員の専門であるため、一般的なコミュニケーション論が成立しえない。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
■ポイント
・上記を踏まえたうえで、教員(というか講師かな)の主たる価値は次のように考えられる。
・「何をインプットすべきか」を体系立てて説明できる
→背景の環境について、アウトプットする相手の分類と考察
・その説明が一種の営業的で、説得力にあふれている
→聞き手の疑問を悉く潰す、メリットを具体的なイメージと共に語ること
また、従たる価値は以下のものと考えている
・継続的なコミュニケーション
・「モテる」気の使い方(ユーモアとか)
・1割ぐらいは、、外面的な価値
・「オレオレ」詐欺のような、中身のないコミュニケーションのノウハウ論は現実問題、必要とされるときはある。しかし、それは指導する側が用いるべきケースであって、そのものを学生に教えよ、ということではない。
具体的には、学生に対して否定をしないとか、ユーモアを用いて話を展開するとか。
それは、相手を消費者化した時に、表面に見えることがあり、必要である。
(あーだめだ。ここ、よく理解してないや。勉強して出直そう。)
・指導内容にノウハウも、時には必要とされる。ただし、フォークを切れ味鋭く見せるためのものとしての役割程度である。以前ディスカッションの方法について指導した際には、「テクニック論以外も教えてほしかった」という意見をもらったこともあり、講義内容の薄さを実感してしまった。
・また、やや脱線。学生が「自己(の経験や経歴)をどう活かすか」のみの視点で意見を述べている限り、どれだけ思考を巡らせてもその学生の成長力は乏しくなるように思える。
理由は2つ。1つ目は、自分の意見をどう言おうかに気をとられていると、主題を真正面から捉えることができなくなるからだ。2つ目は、自分の意見に対する否定ができなくなる。しかし間違いのない人間がいないように、否定なしに整然と組み上げられる理論もない。