本を何冊も持ち歩くことについて考察する。
なぜ、何冊も持ち歩けるのか。たくさんの本を読むため。
・なぜたくさんの本を読まないといけないのか。
・知識を増やすためでは。情報のシャワーを浴びるため。
・浴びてどうするのか。
1.人との話のなかで語彙として使って、相手を納得させる。
これはそう簡単じゃない。自分の話を聞いてくれる人が望まれるのであって。
2.ビジネスの種を拾うため。
アービトラージだから情報のスピードがカギになる。
果たして、一冊の本しか読まないことは損なのだろうか。
そもそも、本を読むのは何のためなのか。
一人では考えられないことを考えるために、我々は本を手に取るのだと思う。
著者の思考の全体を知る、ここでは理解するといったほうが良いか。
だから、一部分だけ抜き出して中途半端に読んだとしても
自分の理解を超える発見をするのは難しい。
本の断片のみに焦点をあて、全体と関連づけることをしなければ、
自分の経験に沿ったただの経験主義的な判断しかできない。
そこまで労力を払わなくても、本を「見る」ことはできるかもしれない。
確かに、読まないからといって「生きる」ことの価値を失わせるものではない。
それで生きられなくの価値が落ちるようでは、人類はとっくの昔に滅びていただろう。
バカであろうが悪をしようが、結果として生き延びてきたのだ。
(何が正しいのかではなく、何が残ってきたのか、だ。
It's not what is right, it's what is left.)
が、これを「結果がすべてだ」と捉えてしまうと、
思考が超越するさまを認識の範囲に収める事はできない。
(平たく言うと成長できない。)
そうではなく、これまで残ってきたもの(=歴史)に目を向けろ、ということだ)
しかし、それであればもはや本を読む必要はない。
部分的なものは街にもあふれているのだから。
それよりもより、確実性、すなわち運に左右されずに、
本当に新しいものを生み出す思想こそは、古典から本を読むことである。
そりゃN毛さんだってA先生に言わせりゃバカなんだけど、でも出世している結果がある。
I田だって支持を集めている。ここ数年で消えるかもだけど。
現実は運に左右される。当然のことだ。
だから、わたしが古典をよむ目的は何か。無論、本を読むうちに目的が分かる(=自己目的的)こともあるが、
意識が分かっていないながら(無意識)に考えているものは何か、
を考えることでより認識力の範囲を拡張するためだと考える。
※ストック書籍とは何か。読後にどのような状態になっているものか。
(芸術が解釈の論争で分かれるように)ストック書籍とは、書物の言葉の新たな意味が蘇生するものだ。
それはフロー書籍が、捨てられるため、また漫画のように娯楽として消費されるためではない。
もちろん漫画にも、その中での知識が訳に立つことはありうる。
だが、それはあくまで二次的な用法に過ぎない。(iPadはマウスパッドとして使えるというレベル)
また、そこで得られる"知識"は断片的なものでしかない。時や場所を超えて像が喚起される言葉ではないのだ。
(わざわざいつでもという風に拡張しなくても、思いついたときでいいじゃんというのはご都合主義であって客観性はない。)
・心を読めれば、後は枝葉末節にすぎない。
だから、同じ時間をかけるのであれば、枝葉末節ではなく、後は心。
現実で変化する細かいものに当たったとしても、それは<心>から考えていけばいいだけの話である。