何を書けばよいか−ブログでの問題提起の作法について考える
「すぐに稼げる文章術」 by日垣隆
■ネタ探しの悩みはつきない
ブログをやってみようかしら、と始めた人が詰まってしまう
一番シンプルな理由、それはネタ探し。
ニュースへの批評みたいなテーマであれば、
困らないかもしれないが、それは書いている人が面白くなくなってしまう。
その問題は当ブログにおいても同じところ。
「常に学ぼう」とか変に気負うと、余計にネタ選びに悩むことになる。
はてさて、どうしたらよいものか。
たとえば、自分の専門性を決めて、それを深堀りすればよいのか。
しかし、突き詰めると深すぎる感じがする、というか狭くなりそう。
大切なことは、一生涯に渡って現役であり得るような何かを見出すことだ。
世界のすべてがことごとく変化しても、あるいは世界が死滅しても、
これだけはやり続けていられるというような何かを見出すことが決定的なことだ。
専門性の真の意味は、生涯研鑽を積んでもなお先がありそうな深みを
感じられるものに出会えるかどうかにかかわっている。「芦田の毎日」 by芦田宏直
■出会いは偶然
出会いの偶然性は、現代哲学を持ってしては、
それは厳然と「偶然である」ことしか言えない。
哲学というか、そもそも学問体系は、
出会いのような純然とした偶然性に向かって
何か対抗できそうな行動を示してくれるわけは無いのだ。
だからブログのネタは偶然であってよい。
ただし、ネタの中身は、どこまで言っても、
自分が認識している範囲内でしかありえない。
(どんなネタであれネットをあさればヒントは見つかるが、
面白く感じなければ自らに引っかからないしブログにならない)
だから、普遍的に分かることは自分のことだけである。
肝心なことは、いまの自分の状況で「出し切る」ことじゃないだろうか。
だから、本当の意味で自分に出来ることは、
自分の年齢、仕事の内容、求められていること、認識している課題、学問背景・・・。
そういった分かる範囲のことは
確実に客観的に理解しておく。
いざブログを書こうとする時のテンションは、
とどのつまり、その時にならないと分からないのだ。
(人間の原則。分かるものしか分からない。)
■その中でも開いて支店
ただ、忘れちゃいけないことがあって、
それは、相手の視点。
以前にもこのテーマで取り上げて触れている。
前提として、筆者は次のように述べている。
私的な関心に「なぜ」と問いを立ててゆくと、社会との関わりについて考えていかざるをえません。
すると、私的な関心が公的な関心へと昇華してゆくのです。
これを「文章を書く」というテーマで落とし込むと、こういうルールになる。
それから「これはうまい」と思う文章に接したときには、どこがどううまいと感じたのか、
ひとことで説明する習慣をつけていくと良いと思います。
感じたことを言語化すること。シンプルだが効果的。正しい呼吸の仕方のようだ。
感想ではなく問いにすることで、思いつきではない普遍的かつ一貫的な自分を発見できる。
(自己分析の理由はここにあるのだ)
そもそも文章とは、人がやっていることについて、
(1)ここの部分は否定したい、
(2)ここの部分は肯定したい、
(3)ここは改善や提案をしたい、この3つで成り立つものなのです。
■結局、何を書くべきか
結論から言ってしまえば、その時々に
最も「テーマとして扱うべき」と決心できるものを取り上げることである。
そもそもブログの目的は「考える力」を養成することであり、
そのうえで大量の執筆量をこなすことは避けて通れない。この量とは文章量でもあるし、
記事数のことでもあろう。より正確にすると書く「契機」となる。
OUTPUTとして小分けされたテーマで書くスタイルが執筆量を確保する現実的なend(目標)である。
その視点に立つと、小分けされたテーマを何にすべきか
で時間を長く費やすことは
大目的からすると非合理である。
だから、そもそもテーマを選ぶときの観点は何か?という
原理を定めておけば感情によってズレることは無い。
一見回りくどいし、私自身の、問題を解決するスタイルが拡散してばかりで、
方針への転換するのは未熟である。と言えなくもないが、
これがいま私に出来ることの現実である。
(常に変えたい!問うて。というヒューマンな思いは、まだ現実できるほど力は無い)
だから、着実に進めていく。
(バージョン2:雑感→すごくヒューマンだなぁ)