「人間らしい」知性の営みである思弁について考える。
思弁とは、先物買いである。
ただの感性的な認識は、対象の変化にあわせて、判断も変化をするのみである。
これは判断と足りえるのだろうか。判断だとしても、質の高い物ではない。
これは「思弁」ではないのだ。すると、何が思弁なのか。
1)無媒介的な<ある>(Sein)
2)本質(Wesen)
過去の規定であり、無媒介性はさえぎられる。反省されてあるもの一般。3)絶対的に概念(an und fur sich)
反省を還帰すること
それぞれは次のように呼応している。
1)現在において発見すること
2)過去の規定に戻って抽象化をかけること
3)把握することで未来のことを想定すること
ヘーゲルは講義でこういっている。
思弁するということは、把握するということです。(・・・)その同一性においては、
あらゆる対立しているものが解消されます。
一つのものを把握するということは
理性を持って現在→過去→未来という時間性を凝縮することなのだ。
最後に、理性を持って現実的とする哲学的立場からは、
疑いを持たないといけないのだが、このコメントは引用しておきたい。
自らの知性を磨いて哲学することについては、知への止むに止まれぬ衝動と、自らのたゆまぬ努力があればよい。
(理性的にアプローチしてもうまくいかないことはある。では、感情的にアプローチするとうまくいくかというと、それは分からない。ただ時間軸上では、短期的には気持がせいせいすることはあるだろう。)
※これは哲学の解説エントリであるので、説得力というより大学のゼミ的な純粋な勉強としてのスタイルを呈しています。